幸せになりたい占い師に神が降りるまでの精神病院での隔離拷問

これは、自殺防止に死ぬような拷問のような思いを、自殺防止の隔離病棟で受けた私が、突然、目の前にいない人の事すら、霊視で分かってしまう能力を、神様から授かったお話です。

ショッキングな内容になっていますので、気が狂うような出来事を読みたくない人は、読まないことをおすすめします。

 

さいころから家族から虐待を受け、トラウマを植え付けられた私は、家庭で我慢しながら生きて、20歳で精神障害解離性障害」になりました。

そこから、何よりも怖い家族のいる家の中、自分の部屋の中で、パソコンを使って、自立する道を探すべく、アフィリエイトやネットの記事を書くライターのお仕事を始めました。

ですが、月に6万前後稼げるようになったライター業も詐欺やブラックな取引先にぶつかるようになり、精神が狂い、働けなくなりました。

ツイッターでカウンセリングをしてくれていた人に、もし私が死んだら、本の隙間に遺書を隠してあることを住所と一緒に伝えていたのですが、私が自殺をすると判断された時、警察に通報し、私の自宅に警察が突撃してきました。

私は家族にトラウマを抱えており、何年もまともに働けなくなったことをずっと言えませんでした。

働けなくなっていることを隠すため、子供のころからためたお金・コンビニバイト時代に貯めたお金を毎月、切り崩して、家にお金を入れながら、毎月働けていたと嘘をつきながら生きていました。

ですが、貯金が減るにつれ、自分の力で生きていくことができず、ただお金が減っていく恐怖に、狂うように泣き叫ぶ毎日から、警察に突撃されることで解放されました。

そこから、老人ホームの事務員として働き、毎月6万円ほどのお金を稼ぐことができるようになりましたが、再び、親へのトラウマが強くなり、狂った私は、精神病院へ入院することになりました。

連れていかれたのは、薄暗い3畳の空調すらない、シンナー「ペンキ」のにおいのする、トイレすら1枚の腰がギリギリ隠れるコンクリートの敷居があるだけの部屋でした。

布団しかなく、部屋は固いドアで閉じられていて、逃げることも自殺もできない、刑務所の独房のような部屋に入りました。

壁には、看護師らしき名前の人の名前や、コロナに感染するといった狂った書き込みが壁に書き込まれ、オレンジというか茶色のシミが天井に染み渡る、テレビも時計もない部屋でした。

隣の部屋からは、パニックになった人の泣き叫ぶ声が聞こえて、部屋にいるだけで精神が狂うような場所でした。

私は、そこに入り、食事も水分も全くとらず、半日あたりが経過した後、死ぬ危険性があるということから、さらなる拷問のような思いを受けることになりした。

両手両足をベルトで固定され、尿道カテーテルを入れられ、点滴をされながら、テレビも時計も何もない部屋にずっと固定されたまま隔離されました。

食べない・飲まない、このまま死ぬと判断された私は、点滴のひもで自殺するのを防止しつつ、水分を供給するため、縛られ、点滴を受ける状況になったんです。

看護師は数時間に1回来ますが、絶対にベルトは外してもらえません。

食事の時は、看護さんが食べさせてくれますが、今、時間が何時なのかわからない、1歩も動けないまま、私はずっと寝たきりで拘束されました。

私はそのストレスで我に返り「ベルトを外してください・話を聞いてください」と何度も泣き叫び、狂ったように暴れまわりましたが、まったく聞き入れてくれませんでした。

ベルトを外すのは主治医の判断が必要ということで、看護師は外せないとのこと。

最悪なことに、その日は金曜日。

金曜・土曜・日曜の三日間、主治医は病院に来ることがなく、私は3日間、この寝たきり生活を続けることを余儀なくされたのです。

死ぬような思いでした。

ベルトを外す判断基準は「食事」・「メンタル」の二つでした。

・食事をちゃんと食べて縛らなくても生きると判断される

・パニックになって自殺に走らないと判断される

これが、私のこの拷問から出る判断基準でした。

おかしな話です。

両手両足をベルトで固定され、テレビも「時計」すらない部屋に閉じ込められ、今何時かもわからない、どれだけ叫んでも看護師もこない部屋で、パニックになるな。

パニックになったら、ずっと拘束する、という状況なのですから。

何もない部屋でずっと寝たきりにさせられ、頭がおかしくなれば、おかしくなるほど、拘束をされる。

こんな状況なら、人はどんどん狂って、病院に過剰に拘束されるようになるだけだとしか思えません。

死にたい・やめろ・離せ

こんな単語を「一言さえ、言ってはいけない」両手両足を完全固定された3日間でした。

私は死ぬ思いで、それを乗り切り、無事、この3日間を終えました。

そこから待ってるのは、最初に入った、独房です。

独房に昇格した後、また狂ったら、再び両手両足を拘束するといわれました。

シンナーのする、狂った書き込みだらけの、トイレさえ上半身がみられる環境で、狂うことすら許されない、監禁生活が始まろうとしていました。

主治医が部屋に入ってきたとき、私は退院したいといいました。

ですが、主治医はそれを許さず、最低でも「1か月」は入院させるといいました。

私は死ぬ思いでした。

こんな監禁を受けて、精神が回復すると思っている時点で、私は異常だと思います。

こんな生活が1か月も最低続くのは、本当に精神が狂い、本当にこの病院と心中が確定すると思っていました。

精神が狂えば、死ぬ可能性があると判断され、拘束がひどくなる。

シンナーのする独房で、生きたいです。幸せです。と言い続けなければ、出られないこの病院で1か月、正気を保てる気がしなかったからです。

一度狂えば、もうずっとあそこの独房生活かベルト固定拷問生活が永遠に続くでしょう。

医師に1か月の監禁を宣言された私に、確率の低いチャンスが訪れました。

着替えなどの荷物を届けに、母親が来たのです。

私は、任意入院という形で入院したようです。

これは、自分の意思で入院し、退院したいと告げれば退院できるというもの。

ですが、これを医療保護入院に変えると主治医はいいました。

これは、保護者の許可があれば「私の意思を無視し、主治医の思うがままに入院させられる」というものでした。

母が来たタイミングで、主治医は、私を医療保護入院に切り替えようとしました。

私がここから脱出できるチャンスは、医療保護入院にすることを固く決めた主治医の前で、母親と主治医を説得し、退院の方向へ引っ張るしかありません。

私はまず、主治医と話をする前に、母と2人だけで話がしたいといい、2人で話せるよう環境を整えました。

ですが、そうも簡単にはいきません。

監視するために、2人で話すための部屋すら、ドアを閉めることすら許してもらえませんでした。

私は、こそこそと小さい声で、現状を説明しました。

私はできもしないことをいいました。

トラウマを植え付けられた家族と話し合い、もう一度、頑張っていきたい。

このように言って、母親に自分が生きる意志があることを告げる。

医療保護入院は、保護者の許可がないとできない。

母親にどんなことを言ってでも、医療保護入院を避けるよう説得。

事前に独房に入れられたときに考えた、説得文を心の中で復唱しつつ、主治医に伝えてほしい、自分に不利になる内容を完全に排他した内容を、こそこそと母親に伝え、確率の低い脱出の交渉の始まりです。

というか、病院の脱出条件や入院内容を把握して、頭を使って立ち回って脱出をしなければいけない環境の時点で、もはや病院がイカれてるとしか思えません。

結果「外泊」という形で、家に帰ってみる。

それで大丈夫なら、退院を検討するという妥協点で、その日に、退院とはいかなくとも、一時的に家に帰れる権利を勝ち取りました。

そのあとの通院まで耐え、私は退院を勝ち取りました。

 

家に帰り、ネットで知り合った人と、話しているとき、私はあることに気づきました。

あったこともない、その人の悩みの原因や家族や家の事がわかるようになっていたのです。

次回「神と一緒に占い師になりました」